こんにちは!
前回パート3では、「江戸時代」における武士と衆道の関係について取り上げてまいりました。
しかし1回では紹介しきれないのが江戸時代。
今回も同時代についてとりあげるものの、前パートとは少し違う視点から見ていきたいと思います。
目次
男色がもはや「文化」となった江戸時代
僧侶⇒武士⇒●●への浸透
前パートから何度も「江戸時代」を推している理由。それが本パートの本題ともなる“庶民への浸透”だからです。
これまで僧侶⇒武士という成り立ちで一定の階級・職業にしか触れ回らなかった文化が、いよいよ“庶民”の間にも深く根づくようになります。
「ホントに庶民にまで浸透してたの…?」
私たち現代の日本人からすれば少々考えにくいことではあります。
実際に行って検証できれば良いのですが、時は100~400年も前の出来事。
私たちが当時の様子を見てくることなんて、タイムマシンでもない限り不可能な話です。
では、だれが当時のニッポンを、客観的にとらえることができるのか。
それは『外国人』です。
江戸時代、日本は鎖国中とはいえ、海外は大航海時代を経たあと。数こそ少ないですが、当時のニッポンを記した書物がいくつか残されています。
ここがヘンだよ日本人!海外から見た日本
それを代表するのが『海游録(かいゆうろく)』。
書物の名前はご存じなくても、“朝鮮通信使が書いた”と聞けば、ピンとくる方もいらっしゃるのではないでしょうか。
1719年、朝鮮通信使の書記官として来日した申維翰(しんゆはん)は、自身が執筆した海游録にて、当時のニッポンをこう書き表しています。
意訳:
「日本人は同姓でも結婚するからすげーよ」
「男が女装すると、モノホンの女よりキレイだから困るわ」
「男のくせにみんな風俗(男相手)に金使いすぎだろ」
いかがでしょうか。
当時の外国人ですら、日本の性風俗を目の当たりにして驚いているのがわかります。
非常に気になるのが“結婚”というワード。
もちろん今のように籍を入れる意味ではないのでしょうが、外国人からしてみれば、武士同士の“衆道”は、いかにも結婚しているかのような関係に見えたということでしょうか。
しかし一番驚くべきポイント。
それは、これが“庶民”を観察したうえでの感想であるという点です。
1719年といえば、幕府成立から約100年ちょっと。
この100年の間に、ニッポンの文化に何があったのでしょうか。
意外にも深いつながりが!?男色と歌舞伎の関係
江戸時代版アイドル『●●歌舞伎』の誕生
この100年の間に、男色文化が庶民に浸透したのもいくつか理由が考えられます。
なかでも浸透化を後押ししたのが“歌舞伎”の発展でしょう。
“かぶき踊り”といえば皆さんご存知“出雲阿国”。彼女から始まった踊りはさらに大衆化。
1617年には京都で“若衆歌舞伎”が始まります。
まぁ今でいうジャニーズ的存在とも言えなくもないと思います。ようするにたくさんの若い男の子がステージ上で歌ったり踊ったりするわけですから。
ですが意外にも、ファン層は女性だけではなく、男性ファンも多かったようなんですね。
その理由が“遊女歌舞伎の禁止”にあります。
出雲阿国は女性ですから、最初に真似をしだしたのも“女性”。特に“遊女”の間で流行ったことから“遊女歌舞伎”と呼ばれています。
今で言う秋葉原のAKB劇場みたいなものですかね。女性がステージで歌ったり踊ったりするわけですから。
しかし江戸時代版AKB48は、
「風紀が乱れるからやめなさい」
という幕府の一言により、1629年に廃止されてしまいます。
そして残った“若衆歌舞伎”に、男も女も、武士も庶民も熱狂していくわけなんですね。
ちなみに前パートで取り上げた徳川家光も若衆歌舞伎の大ファンで、たびたび観に行っていたんだそうです。
“前髪萌え”を詠った俳句
「前髪もまだ若草のにほひかな―」
鮮やかな五七五で綴られるこの俳句。
気になるのはこの“前髪”。いったい誰の前髪なのか・・・
まぁお察しのとおり、“若い男の子”の前髪なんですね。
あえて前髪を強調するのは、当時は“前髪”が男の子の大きな萌ポイントだったんですね。
今のオタクがツインテールや姫カットを好むのと同じですね。
当時ツイッターでもあれば「うほwwwあの子の前髪パネェwww」とでもつぶやいていたんでしょうか。句で表現するとは、いやはや恐れ入ります。
それもそのはず。この句を詠んだのは“俳聖”とも称される
かの松尾芭蕉その人なんですから。
彼もまた衆道家として、実は有名な人なんです。
前髪切っても人気は変わらず…「野郎歌舞伎」の誕生
「なんでここで“萌ポイント”の紹介・・・?」
と思われた方もいるでしょう。
それは先述した“若衆歌舞伎”の人気がヤバすぎて禁止されてしまうからなんです。
1652年。当時は「殉死ブーム」の時代。
衆道だろうが歌舞伎だろうが、男色に関係するものはすべて殉死を招く勢いだったので、さすがにこれ以上死人が出たら困るということで、幕府が禁止令を出したのでしょう。
今の時代だってそうですよね。
ジャニオタが「この命、櫻井クンに捧げん―」とか言って切腹したら大問題ですよね。
当時はそれが起きてもおかしくないくらいだったということです。
禁止といっても歌舞伎自体が禁じられたわけではありません。
幕府の指示はこうでした。
「“前髪切る“ならやってもいいよ」
「あ、その程度でいいの?」
と思われるかもしれませんが、前髪の重要性は前述のとおり。
当時はそれくらい、アイドルにとって前髪が大事な萌ポイントだったということなんでしょう。
前髪を切った頭は「野郎頭」と呼ばれていたので、若衆歌舞伎に代わり「野郎歌舞伎」という新ジャンルのアイドルが誕生。
そして条件はもう一つありました。
「ただ歌って踊るんじゃなくて、ちゃんとストーリーがあるヤツやれよ」
これが現在の「歌舞伎」のルーツであるとされています。
まとめ
僧侶から始まった男色文化は、武士の時代を経てようやく“庶民”レベルに浸透し始めました。
ここに来てようやく“文化”と呼べるにまで至ったのかもしれません。
今回取り扱ったのは「歌舞伎」が主なメインテーマでしたが、もっと大きな視点で捉えると商業化、要は「エンターテイメント」としての発展が格段に進んだ、ということになります。
戦乱の世においては「武士と武士の契り」として重要な役割を果たしていた男色。
平和な江戸時代ニッポンにおいては、「芸能」という新たな役割を見せるようになりました。
現代の「歌舞伎」、大げさに言えば「芸能文化」の発展に「男色文化」が少なからず寄与していた事は、LGBTを学ぶ上で、私たちが知っておいても良いこと。
むしろ誇って良いこととすら、思えるのではないでしょうか。

「LGBTの歴史」「坊主の男色」「サムライ同士の同性愛」など。
LGBTを勉強していると、非常に面白いストーリーに行き当たることがあります。LGBTは遠い存在のものではなく、日本人である我々だからこそ、もっと身近に存在するものなのだな、思わされます。そんなストレートである私が見つけた“トリビア”的な事例を通じて、読者の方がLGBTに対し、より一層の興味をもって頂くことができれば幸いです。