LINEで送る
Pocket

前回までの「男色(衆道)の歴史~男色からLGBTを学べ!!~」

こんにちは!前回のパート2では『戦国時代』における男色文化についてを取り上げてまいりました。

足利義光から始まった武士の男色文化は性的好奇心を満たすにとどまらず、「衆道」というパートナー同士の新しい関係性が芽生えたのが特徴でしたね。

はてさてその衆道文化を継承し、ついに男色文化が最大限にまで開花するのが本パート『江戸時代』です。

平和なニッポンにおいて、争いのない武士たちの価値観がどのように変化していくのかに注目してみましょう。

 

「男色文化」はなくなるのか!?

本題に入る前に少し日本史のおさらいです。

みなさんご存知の通り、江戸時代(1603~1868年)は徳川家康が関ヶ原の戦いにて西軍を下し、江戸(東京)に徳川幕府を樹立するところから始まります。

そこから実に265年もの間、徳川家15代にわたる統治が続くわけですが、とりわけこれまでの日本史においては比較的平和な時代であったというのが世間一般の見方だと思います。

この“平和なニッポン”ということを前提にお話しするなら、当たり前ですが武士の価値観も大きく変わってきます。

前パートの戦国時代においては、毎日が戦の絶えない日々。 『明日死ぬのは自分かもしれない…』 武士の誰もが思うなか、女人禁制の戦場において性の対象となるのはオトコだけ。この制限された状況下において、男色という文化が流行るのも致し方ない気がします。

では『戦』がなくなると同時に、『衆道』もなくなってしまうのでしょうか?

「これからはオトコでガマンする必要なんてない!オンナ遊びしまくるで~♪」 みたいな感じになるのでしょうか?

もちろん大半の武士の恋愛対象は異性ですからオンナ遊びもするでしょう。 しかし『男色』という文化は、意外な形で発展することになるのです。

 

衆道は「主従関係」に宿る

確かに戦国時代が終わり、大きな戦は無くなりましたが、城の中の戦はなくなりません。

君主にとって一番恐いもの・・・身近な家臣による裏切りです。

君主にしてみれば、いつ裏切られ、暗殺されてもおかしくない状況。逆に家臣からしてみれば、君主にもしものことがあれば、自分の首が飛ぶかもしれません。

そんなとき、君主と家臣。お互いの信頼関係を確かめるために、“衆道の契り”というのは、とても大切なものだったと思われます。

そしてその愛情表現が「夜のお相手」だったり「自害」だったりと・・・。お互いに命を預けあう関係は、江戸時代になっても変わらずにつづいているのですね。

 

「頼むからもう死なないで…」いきすぎた殉死ブーム

しかしそんな衆道も“流行りすぎて困った”時代があります。

衆道ブームと併発したのが“殉死ブーム”。前パートで少し触れましたが、自身の主が亡くなった際、その忠義により部下である自身も自害する。

現代では考えられませんが、それが当事の武士としての美学だったのです。

言葉で説明するより、数字で見たほうがわかりやすいかもしれません。

君主:島津義弘 ⇒ 殉死者 十二名
君主:伊達政宗 ⇒ 殉死者 十五名
君主:鍋島直茂 ⇒ 殉死者 十二名
君主:鍋島勝茂 ⇒ 殉死者 五名
君主:鍋島勝重 ⇒ 殉死者 二十六名

上記は例で、数点挙げたものにすぎませんが、いかがでしょうか。

いくら自らの君主がなくなったとはいえ、優秀な家臣がこれだけなくなってしまうと、その藩の将来も危ぶまれます。

しかしよく考えてみると、納得できる理由もあるのです。

先述したように、時はすでに平和な江戸時代。戦が起きないということは、武士は自らの死に場所を選べません

生き恥”という言葉があるように、ただ生きるだけの武士はカッコ悪い。武士にとっては、華やかな“死に際”こそが最高にカッコ良いものなのです。

戦国時代を過ぎ死に後れてしまった家臣たちにとって、「君主の死」というのは残された唯一つの死に場所だったのかもしれません。

ちなみに上記の例では“鍋島氏”が3人続いています。鍋島氏は佐賀藩の名主。全国でも特に佐賀藩は殉死者が多かったと言われています。

 

「オトコ好きすぎてママを困らせる」徳川家光

特に勉強になることは何ひとつありませんが、ここで将軍家の男色エピソードをひとつ。徳川家光について紹介します。

徳川幕府三代目将軍。二代目秀忠、春日局(かすがのつぼね)を父母に持つ。教科書では「参勤交代」の制度を武家諸法度に加えたことなどで有名ですね。

そんな家光公にも、“男好き”という趣味がありました。しかしあまりに好きすぎてしまったがゆえにこんなことも…

家光と衆道関係にあった“坂部五左衛門”という武士がいます。 あるとき五左衛門がお風呂に入ると、同じ小姓仲間のかわいい美少年と遭遇します。

坂部「お!美少年やん!ええ体してまんな~。ちょっとこっちこいや」

美少年「え~いやですよ~///////」

そこを偶然通りかかった家光。

家光「おまっ五左衛門!!貴様なにワシに黙ってイチャついとんのじゃボケェー!!!」

ザシュっ。

五左衛門はその場で家光公に切り捨てられてしまった・・・。なんていう話もあります。

将軍は怒らせると恐いですね・・・。

事実家光公には奥さんはもちろん、何人もの側室がいたにもかかわらず、中年を過ぎても子供を作ろうとしなかったそうです。

そんな息子を見て、跡継ぎが生まれないのを心配したお母さんこと春日局は、様々なところから家光好みの女中を城に集めたといいます。

なんともまぁ羨ましい話であります。そしてお母さんの努力の末、晩年は何人かの側室を寵愛したそうです。

 

「“生類憐みの令”はゲイのため!?」

徳川綱吉 家康、秀忠、家光。まだ戦国の頃の雰囲気を払拭しきれず、上記のように何かと物騒なことが多くありました。

そこからガラっと平和主義の政治にイメージチェンジを図ろうとしたのが、徳川幕府五代目将軍綱吉

言わずと知れた「生類憐みの令」でもおなじみですが、「徳松」なんていうどこかの六つ子にいそうな幼名だったことはあまり知られていません。

そして“夜の相手”をする男の子が105人もいたなんて話はもっと知られていないと思います。

皆さんには小学校の授業で習ったとおり「犬が好きすぎて“生類憐みの令”をつくった」というエピソードが印象的かもしれませんが、そもそもこの令は「彼が大の男色家だったからつくった」と考える人もいます。

その根本には「かぶき者」の存在があります。今でいう「不良」「チンピラ」と呼ばれそうな人のことですが、当時はただワルなだけではなく、「男好き」が多かったといいます。

家臣 「殿っ!江戸の町で、かぶき者たちの辻斬り・ケンカ・犬の殺傷が増えています!」

綱吉 「なんじゃと!?かわいいワンコたちをいじめるとはとんでもない奴らじゃ!!」

綱吉(しかしワルとはいえ、ヤツらもワシと同じ男色家。決して悪いヤツらではないはず)

綱吉(新しい法律でもつくって、平和的に解決しようかの…)

これが生類憐みの令ができたきっかけ・・・と唱える人もいます。

 

まとめ

いかがでしたでしょうか。

江戸時代は“男色全盛期”と私が呼んでいるだけあって、紹介したいエピソードも盛りだくさんです。

今回は武士での“男色”を紹介したいのですが、実は、江戸時代の男色には、庶民の間でもっと大きなムーブメントが・・・その続きはまたの機会に。

 

上野涼太のプロフィール写真です。上野 涼太

「LGBTの歴史」「坊主の男色」「サムライ同士の同性愛」など。
LGBTを勉強していると、非常に面白いストーリーに行き当たることがあります。LGBTは遠い存在のものではなく、日本人である我々だからこそ、もっと身近に存在するものなのだな、思わされます。そんなストレートである私が見つけた“トリビア”的な事例を通じて、読者の方がLGBTに対し、より一層の興味をもって頂くことができれば幸いです。