こんにちは!!
前回のパートでは、主に平安~室町時代にかけての、男色の歴史についてアップしてきました。
「藤原頼長」や「空海」など、数々の有名人にスポットを当ててきましたが、「え?この人も!?」と、驚いた方も多いのではないでしょうか。
さて、今回のパートは「戦国時代」。
戦国時代といえば、数々の“イケメン武士”が生まれた時代でもあります。そんなイケメンたちの物語をもとに、戦国の男色文化を取り上げていきたいと思います。
目次
武士同士の男色カップル「大名×○○」が流行した時代
「空海」を通じて中国から伝わった「男色」は、密教を通じて僧侶たちの間で盛んに行われました。僧侶が行う「男色」は、女人禁制の寺院での欲求を満たすため。いわば性的行為そのものを意味していました。
そして時は室町時代。足利義満を通じて武士へと伝わった男色は、単なる性的行為を指すのではなく、新たにもう一つの意味を持つようになりました。
それが今でいう「忠義心」「師弟関係」のようなものであったと考えられます。この意味を含めた男色を「衆道」と呼ぶようになりました。
そもそも「男色」とは、「若道」とも呼ばれる通り、主には年上と年下の男性同士のカップルのことを指します。奈良時代以降の僧侶であるならば、僧侶×稚児(10~13歳の少年)が典型です。
寺院では女人禁制だったがために、女性のお手伝いさんではなく、代わりに少年のお手伝いさんを雇っていたのです。それが僧侶の目に留まり、このようなカップリングが典型例となりました。
では、武士の場合はどのようなカップリングが王道だったのか。
当たり前ですが、武士の中にも上下関係があります。その武士の中でも、地域で権力をもった武士を「大名」と呼びます。
その大名に仕え、秘書として高い知性を持ち、いざとなれば主の剣となり盾となる。仕事中だけではない。主の生活の一部として、身のまわりの世話さえもしていた、大名との距離が最も近い要職。
「小姓」という武士の職が生まれました。
寺院では「僧侶×稚児」、武士の間では「大名×小姓」というカップリングが定番だったのです。
大名の男色の相手、「小姓」とは?
「小姓」は、古くは室町時代からある武士の役割で、古い書物には「小生」「小性」とも書かれていました。
当時はただの雑用係としての役割が大きかったのですが、ここで小姓に目をつけたのが室町幕府三代将軍「足利義満」。
義満は、僧侶だけの文化だった男色を、武士の世界に持ち込んだ「男色のインフルエンサー(拡散者)」とも言えますが、その際に男色の相手として採用?したのが小姓でした。
「僧侶だけ可愛い少年たちを雇ってずるい。俺も美少年がほしい!!」
そう思ったのか、義満は全国から大名の子息を集め、自らの傍に置くようになりました。
(その中には後に「能」の祖となる猿楽師。幼き頃の「世阿弥」もいたとされています。)
このように、階級の高い武士が小姓を雇うことを、その名の通り「小姓制度」と言います。
戦国時代には当たり前になった小姓制度ですが、武士の間で男色が広まったのと同時に発明されたこの小姓制度。これも義満が元祖であったといわれています。
小姓は出世への近道!?小姓から成りあがった有名な歴史上の人物
小姓制度の始まりは室町時代ですが、確立されたのは戦国時代からでしょう。
この頃には、大名が小姓を持つことは当たり前となっており、小姓と衆道の関係を持つことは、ある種大名の嗜みの一つとして見られるようになりました。
そして、この小姓という役職は、単なる雑用係にとどまらず、なんと出世への近道にもなったのです。
事実大名の寵愛を受けた小姓には、皆さんご存知の名前が多数見受けられると思います。
有名どころで言えば、織田信長の小姓「森蘭丸」は誰もがご存知でしょう。
森蘭丸は、織田信長に使える18人の小姓のリーダー格といえる存在でした。18人もの小姓を抱える信長もすごいですが、そのリーダーを張れる蘭丸も、よっぽどの美少年+知性豊かな武士だったのでしょう。中性的な容姿だったのか、信長は蘭丸を「お蘭」と、女性の呼び方で呼んでいました。
他にも小姓から名を挙げた人物として、武田信玄に仕えた高坂弾正、上杉景勝に仕えた直江兼続、豊臣秀吉に仕えた石田三成、徳川家康に仕えた井伊直正など。この4人も、小姓から出世した人物です。
男色界のモテ男たち「戦国三大美少年」!!
日本で世界三大美女(クレオパトラ7世、楊貴妃、小野小町)といえば誰もがご存知かと思いますが、戦国時代に名をとどろかせた「戦国三大美少年」(あるいは天下三美少年)の存在を知る人は少ないのではないでしょうか。
美少年とはいえ、主の身をお守りする武士。容姿もさることながら、武人としても力量も持ち合わせる3人の名小姓をご紹介します。
三大美少年の中の美少年「不破万作」
三大美少年の中でもとりわけ有名なのが「不破万作(ふわばんさく)」。
豊臣秀吉の甥にして羽柴秀次の小姓を務めた美少年中の美少年だったとされ、さまざまなモテモテエピソードがあるそうです。
俳優の不破万作さんの芸名の由来となった、といえばピンとくる方も多いのではないでしょうか。
不破万作の逸話は多数ありますが、彼を有名にしたエピソードといえば、やはり彼の死に際でしょう。万作は主である秀次の「殉死」という形で、しかも18歳という若さでこの世を去っています。
このころ「衆道ブーム」と併せて、主とともに自害する「殉死」も流行りました。この時代殉死によって多くの武人が自らの腹を切ったのですが、不破万作もそのうちの一人でした。
不破万作の主である羽柴秀次は、秀吉の甥(秀吉の姉の長男)でした。当時秀吉の子供である鶴松が早くに亡くなったため、秀吉の跡継ぎとして秀次の名が挙がり、一時は太閤の職についていました。
しかし、のちに秀吉の新たな嫡子(長男)、のちの豊臣秀頼が生まれると、徐々に秀次は継承の候補から除外されていくようになります。
そして、ついには、ありとあらゆる罪状を押し付けられ(謀反の疑いなど諸説あり)、秀吉に切腹を命じられてしまいます。このときの露払いとして、不破万作が切腹。主の秀次が解釈を務めることに。
この万作の死に際が美徳とされ、後世に語り継がれています。
二物も三物も与えられた「名古屋山三郎」
織田信長・豊臣秀吉の両主君に仕えた蒲生氏郷の小姓、名古屋山三郎(なごやさんざぶろう)。主君である氏郷も、初めて会った際は女の子であると勘違いし、「嫁に取るために素性まで調べた」という逸話が残っています。
武将としてというより「歌舞伎の祖」としての知名度が高いのではないでしょうか。
なんといっても名古屋山三郎の奥さんは、あの「かぶき踊り」で有名な「出雲阿国」とも言われているのです。これが事実ならば、誰もが羨む美男美女カップルであったことが推測されます。
とはいえ、戦でも槍の名手として活躍したそうで、「鑓仕(槍士)、鑓仕は多けれど、那古野山三は一の鑓」と謳われたそうです。本当に羨ましい・・・。
主が変わるも人気は変わらず「浅香庄次郎」
浅香庄次郎は、不破万作、名古屋山三郎と並び三大美少年の一人として数えられる人物。織田信雄、蒲生氏郷、石田三成と庄次郎の君主はなぜか不幸に見舞われることが多いため、そのつど君主が変わり、最後は前田利常を君主としたといわれています。
美少年のうちの一人、名古屋山三郎とは蒲生氏郷に仕えたときに出会っています。
名立たる美少年好きの大名たちに多く取り入られた庄次郎もまた、絶世の美少年だったに違いありません。
衆道の世界に多い「殉死」とは?
主の後を追って自ら腹を切る「殉死」。肥前国佐賀鍋島藩士、山本常朝が書いた「葉隠れ」にはこのことを表すかのように「武士道と云ふは死ぬ事と見つけたり」という一文が残されています。
もちろん「じゃあ、バッサバッサ死ねばいいのか」ということではなく、あくまで「死ぬ覚悟で」という意味なのですが、当時はそのくらい武士の「死」が美徳とされていた時代だったということでしょう。先述の不破万作エピソードを含め、多くの侍たちが主とともに殉死しました。
かといって豊臣秀次と不破万作のように、「殉死」したすべての君主と小姓が肉体関係にあったのかというと、決してそういうわけではありません。
ですが、室町幕府以前の男色と決定的に違う点が、この「忠誠心」の有無。それを行為で表したのが殉死。するかしないかで、君主への忠誠心が試された時代でもあったのです。
武将も時には恋に悩む!?「武田信玄」の手紙に綴られた想い
戦だけじゃない信玄
最後に、有名人かつ意外な人物の男色(衆道)ドラマを紹介したいと思います。
「武田信玄」といえば、日本人でその名を聞いたことがない人はいないでしょう。甲斐の守護大名として名を馳せ、「甲斐の虎」の異名で恐れられた戦国武将です。
ライバルである上杉謙信との「川中島の戦い」など、戦のイメージが強い信玄ですが、男色においても、多くの史料が残っています。正妻もおり、おまけに3人の側室もいたのですが、小姓との肉体関係もあったようです。
主に有名な物語としては、上記でも少し触れた「高坂弾正」(当時:春日源助)との仲についての恋愛ドラマ。これは武田信玄が自ら源助に宛てた手紙から、その物語を紐解くことができます。まずはその原文を記載します。
一、弥七郎にしきりに度々申し候へども、虫気の由申し候間、了簡なく候。全くわが偽りになく候。
一、弥七郎伽に寝させ申し候事これなく候。この前にもその儀なく候。いはんや昼夜とも弥七郎とその儀なく候。なかんづく今夜存知よらず候のこと。
一、別して知音申し度きまま、急々走り廻ひ候へば、かへって御疑ひ迷惑に候。 この条々、偽り候はば、当国一ニ三明神、富士、白山、ことには八幡大菩薩、諏訪上下大明神、罰を蒙るべきものなり。よって件の如し。内々宝印にて申すべく候へども、甲役人多く候間、白紙にて。明日重ねてなりとも申すべく候。
苦しい言い訳を連ねる信玄
意訳の前に、この手紙の背景から説明する必要があるでしょう。
信玄の小姓として有名な源助も、先述した美少年のお三方に負けないくらい美少年だったといわれています。多くの小姓をもった信玄とはいえ、この源助との関係は特に固い契りで結ばれた衆道関係にありました。
時は信玄24歳、源助19歳のときのことです。源助は信玄に関する、とある噂話を耳にします。
「信玄は源助という小姓がいながら、弥七郎という小姓をお手つきになった」
「弥七郎」もまた信玄の小姓の一人であり、もちろん源助も知る人物。
これを聞いた源助は怒り心頭。すぐさま信玄に「弥七郎と関係をもちましたね!?」と詰め寄ります。
これに信玄は大慌て。なんとか弁明しようと上記の手紙を源助へしたためたのです。
さて、それでは信玄の手紙を現代風に意訳してみましょう。
一、 確かに弥七郎を誘ったことはあるよ。でも「ごめんなさい、いまおなかが痛くて・・・」って言って断られたんだ、ウソじゃないよ!!
一、 弥七郎と寝たことなんて、これまで一度だってない。言うまでもなく、昼も夜も約束してない。もちろん今夜にだって絶対にないから!!
一、弥七郎とは、ただただ普通に親しくなろうとしただけだから。それで色々誤解させて、さらには迷惑までかけてしまったね。これにもしウソ偽りがあれば、甲斐の一の宮、二の宮、三の宮。いやもっと、富士、白山、八幡大菩薩、諏訪上下大明神の罰を受けたっていいよ!
追伸:
本来ならば正式な印鑑を押したうえで手紙を書くべきところですが、いろいろと役人を通したりしないといけなくて・・・。取り急ぎの手紙で申し訳ございません。明日あらためて書き直します。
「衆道」は、一言では表せない、固い絆で結ばれた関係
いかがでしょうか。信玄の焦りが、手に取るように伝わってくるでしょう。
あの「甲斐の虎」と恐れられた信玄とはいえ、源助には頭があがらなかったようです。ここで注目したいのは、信玄と源助・・・というより、大名と小姓の関係性です。
思い出していただきたいのは、室町幕府以前。まだ武士の文化に衆道関係が浸透していなかった時代。僧侶がほぼ一方的に稚児に対し、性的欲求をぶつけるイメージでした。
しかし室町以前の男色とは、性質がずいぶん変わりました。手紙を読んでわかるとおり、信玄と源助。主と小姓という上下関係はあるものの、対等に痴話喧嘩をしているのです。
ここから当時の衆道、つまり大名と小姓が、固い誓いのもとに成り立っていることがわかります。
どちらかが一方を利用するのではなく、お互いがお互いを必要とする。戦友でありながら夫婦にも似た関係性を感じませんでしょうか。
まとめ
今回は戦国の男色ということで、おもに大名と小姓同士の衆道について解説してきました。
僧侶が単なる性の対象として稚児と遊んできたのに対し、武士の衆道は「忠義」という要素が加わり、だいぶ性質が変化しました。
ここで皆さんすでにお気づきかと思いますが、この男性同士が「お互いを必要とし合う」関係性。
現代のパートナー同士の関係性に、徐々に似てきているとは思いませんか?
今でこそ戦や武士といったものはなくなりましたが、このような同性愛が堂々と許される文化は、今の日本にこそ必要とされている文化なのかもしれません。

「LGBTの歴史」「坊主の男色」「サムライ同士の同性愛」など。
LGBTを勉強していると、非常に面白いストーリーに行き当たることがあります。LGBTは遠い存在のものではなく、日本人である我々だからこそ、もっと身近に存在するものなのだな、思わされます。そんなストレートである私が見つけた“トリビア”的な事例を通じて、読者の方がLGBTに対し、より一層の興味をもって頂くことができれば幸いです。
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