本題に入る前に、17歳の自分へ短い手紙をかいてみた。
あの頃のわたしには、人に寄りかかっても、自分ですらも、どうする事もできない孤独感がいつも付きまとっていた。
もしも17歳の自分と会えたら、1人じゃないから大丈夫!!と言ってあげたい。
そしてLGBTQ後進国の日本が迎えている、この過渡期を見せてあげたい。
目次
セクシャルマイノリティな自分に悩んでいる17歳の自分へ
こんにちわ。元気ですか?35歳の君です。
いま君は大好きな友達にかこまれて最高な毎日を送っているね。
でも大きな不安も抱えているよね。進路を考えなきゃならないうえに卒業したあとトランスジェンダーとしてどう生きていくのか。
どんな未来が待っているのか。
とても怖がっているね。
今は「自分らしさ」を出していても周りの友達はみんな受け入れてくれる。
でも世の中に出たら死ぬまで本当の自分を偽らなきゃならないんじゃないかと、不安がっている。
隠れて生きる人生なんか意味のないもの。何のために生きているのか。早く消えてなくなりたい。そんな気持ちでいっぱいだね。
周りの同性の友達と何かが違うから、きみは偏見や差別をとても心配して閉ざされた未来しか想像できないでいる。
でも、そうでもないんだよ。
育った町や環境が、君のアタマの中でそういう未来を作っているだけかもしれない。
不安とか心配はそんな「想像の世界」を作り上げる力を持っているから。
もうすぐ君はインターネットで新宿二丁目という街を知ることになる。その時やっと君は自分の存在を許すことができる。
君はそこで一生ものの友達に出会えるし、もう少し自分を開放する事ができる。
いまは孤独感でいっぱいだけど、実際はそれほど孤独ではないものだよ。
そもそもどうして17歳の自分に35歳の自分が手紙を書いていると思う?
17歳の君は隠れて生きていた。でも35歳の自分はこの手紙を公の場で書いている。
逃げたり隠れたりする世の中が少しずつだけど変わり始めているんだよ。
カミングアウト≪家族編≫
母親へのカミングアウト
35歳になったわたしは今、母親にだけカミングアウトをしている。父と兄にはまだしていない。
カミングアウトでとても悩む相手は、やはり家族だ。
大切なことなのに、自分の本当の姿なのに、怖くてなかなか言い出せない。
やっとの思いで母に打ち明けたとき、彼女は理解してくれていたように見えた。
1時間ほど話し、意外にもあっさり受け入れてくれたようだったから、やっと言えた!とその日は安心していた。
しかし翌日になって「やっぱり考え直して欲しい」と言われてしまった。
「考え直して変わるようなもの」なら何も悩むことはない。
母親へのカミングアウトのその後
あれから約2年、その話題にはほとんど触れずに過ごしている。わたしのフォローが足りないせいもあるかもしれない。
普通に結婚して子どもを産んで欲しい、と言われることもある。そのたびにぶつかる。
「普通に」という言葉は正直いってウンザリしてしまう。
人は死ぬ前に後悔することがいくつかあるらしい。
「怖さや不安をこえてもっと勇気を持てばよかった」
「もっと自分の本心をさらけ出すべきだった」など。
わたしもこれまでの人生で、死ぬんじゃないか、と思ったことが何度かある。
その数秒のうちにハッとよぎる事の一つは「まだやってない事がある!!」だ。
両親も高齢になり、元気なうちに「お別れ」の準備も始めたいと思っている。
もしも親との関係で解決できない事を残してしまったら、自分との向き合いもおざなりになってしまう気がしている。
だからこそお別れの日が来る前に両親と深いところで分かりあっておきたい。
その準備の一つは父親へのカミングアウトだ。
父親へのカミングアウト
子どもの頃から痛い目を見ないと分からないわたしのうしろで、いつでも父はどっしりと構えていた。
何があってもお前の味方だから安心しろと、一度だけ言ってくれた事もある。
そんな父に本当の自分を隠していることは、言葉にできないほど申し訳ない。
きっと彼はわたしの「隠しごと」にうすうす気づいている。
「歩くカミングアウト」のようなわたしを見ていて父が気づかないハズがない。
父親に対して「隠しごと」が増え始めてから、会話は少なくなったように思う。
一生の後悔だけはしたくない。
カミングアウト≪友人・知人編≫
それにひきかえ、友人・知人のハードルは低い。誰にでもカミングアウトをする訳ではないけれど。
まだカミングアウトをしていない友人とお酒を飲みに行くと、当然のように男女が前提の恋愛トークになる。
ある飲み友達に、当時の「彼女」のことを「彼氏」にすり替えて話をしたことがあった。
わたしが当時付き合っていたのは、いわゆるオカンのような人だ。
そんな相手を男性にすり替えて話をするにはちょっとムリがある。
話していくうちに飲み友達のアタマの中では、とても家庭的で安心して頼れる「彼氏」像ができあがってしまった。
「そんな男の人いるんだねぇ!どこで見つけたの!?なんで結婚しないの??」という友達の質問に、わたしは内心「出会いは女子寮だし、法律で結婚できないし…。」と葛藤する。
大事な部分を隠しながらの説明は、余計なエネルギーを消耗するし、伝わりきらないもどかしさに居心地が悪くなってきた。
「ん~。実はね、」
本当のことを話した。
やっと全てがつながった!!飲み友達の顔はパッと明るくなった。
それからはよくあるパターンで、お互い腹を割って色んなことを話せるようになったのだ。
何が言いたいかというと「男女が前提」で恋愛トークが始まるのがまだまだ一般的。
出身地を尋ねるように、
「あなたはどっちが好きなの?」
そう気軽に聞けるくらいの世の中になって欲しい。
カミングアウト≪田舎編≫
少しずつ変わっていた田舎のLGBTQ事情
わたしは地方で生まれ育った。20代を東京で過ごし、30代で地元に戻ってきた。
戻って来てちょっと驚いたのは、以前よりもLGBTQのカミングアウト人口はたしかに増えているということ。
どうして気付いたかというと、医療関係者から「ホルモン注射を打っている人がけっこういる」という話を聞くから。
男女の結婚を前提に世話を焼く中高年
それでもカミングアウトは、都会から離れれば離れるほど消極的。
田舎には「結婚」の世話を焼きたがる中高年の方が多いというのも理由の一つかもしれない。もちろん「男女の結婚」のことだ。
ビックリするのは、会って間もないのに「結婚はしてるのか」と聞いてくる中高年の方が意外と多いこと。
「いい歳なんだから早く結婚して子どもつくれよ~。」
そう言い残して去っていく。
わたしが都内に住んでいたころ、居酒屋でたまたま隣に座っていた60代くらいの女性と結婚の話になったことがある。
彼女はわたしたちと話したがっていて隣から何度も声をかけてきた。
わたしたちも親と話している様な感覚で打ち解けていくうちに、彼女が何度も話しかけてくる目的が分かった。
その居酒屋で、息子さんの結婚相手を探していたのだ。
わたしは「同性が好きなので男の人とは結婚しませ~ん。」と言うと彼女は、「そんなの今のうちだけなんだから。」とか「いつか元に戻って、ちゃんと結婚のことを考えなさい。」と言ってきた。
お酒の力もあってかなり本当のことを話したつもりだったが、彼女は冗談と思って聞いていたようだ。
これ以上話しても「結婚しない」「元に戻れ」の繰り返しになるのは目に見えていた。
彼女もまた、上京して都内に住む息子さんの所に遊びに来ていた方だった。
育つ環境がLGBTQの子どもに与える影響
もちろん、都会だからLGBTQを受け入れ、田舎だから受け入れない、と言うつもりはない。
ただ、田舎にはこういった「世話焼き」を小さな頃から見聞きしているLGBTQ人口は都会に比べたら多いはず。
そんな世話焼きを小さな頃から見ているLGBTQの子どもたちは「男女の結婚が当たり前なんだ」と思い込んで育ってしまう。
男女の結婚が当たり前なら、同性が好きな自分はおかしいんじゃないか、とますます本来の自分を曲げかねない。
しかしこれは土地の慣習や長年の常識があるので、すぐにどうこうできる事ではない。
こういった環境におかれている子どもたちにとって、小さな頃からLGBTQに触れる機会があれば大いに助けになると思う。
カミングアウト≪閉じ込めた編≫
異性のパートナーがいても異性愛者とは限らない
いま異性と結婚しているからといって、いま異性と付き合っているからといって、その人が純粋な異性愛者であるとは限らない。
隠していたり、周りに合わせていたり、環境がゆるさなかったりなど、さまざまな理由がある。
周りと同じように異性と結婚をしたものの「やっぱり自分は同性が好きだ…」と苦しい思いをしている人もいる。
子どもが欲しいけど体裁が悪いから、とか、本当はこの人(同性の相手)が好きだけど結婚ができないから、とか、相手を無理やり忘れようとする人もいる。
何歳でセクシャリティに気づくのかは分からない
わたしが実際に出会った50代の女性で、完全に自分にフタをかぶせてしまった人もいる。
彼女とは、あるイベントで知り合った。LGBTQとは全く関係のないイベントだ。
彼女はわたしたちのブースのすぐ近くにいて、わたしと同じ匂いがしていたのですぐに気付いた。男前でカッコイイいいおばさんだなぁと思って見ていた。
ひょんなことから話し始めたらあっという間に仲良くなりその日は夕飯を一緒に食べることに。
始めから親近感があったので、迷わずカミングアウトをしてみた。ところが、彼女は初めて聞くような顔をして少し驚いていた。面食らってしまった。
さらには「自分は人に惚れたことがないんだ」と。それを聞いてわたしは、もしかしたら彼女はアセクシュアル(人に恋愛感情を抱かないセクシャリティ)なのかな、と思っていた。
それからしばらくして再び彼女と会うことに。
今日は話そうと思ってたことがあるんだ、と彼女が言う。
「こないだ言ってたセクシャリティのことなんだけど、あれから自分もよーーーく考えてみたらLGBTだった。トランスだと思う。」と。
むかしの記憶をたどれば、ぼやけてるけど確かに好きだったなと思う人がいた、とも。
彼女の周りにはLGBTがいなかった。というよりも、彼女の年代の方々はそれを隠し通すから存在していたとしても気付かなかった。
だから彼女自身も長い年月のあいだ本当の自分を閉じ込めていたようだ。閉じ込めて隠しているうちに、自分は人に惚れない体質なんだ、と言うふうにすり替わってしまったのだ。
好きになったら突き進んでいく自分と対照的に、彼女は情熱を閉じ込めて生きてきた。
50年以上も本当の自分を閉じ込めて彼女は別人を生きてきたのだ。その人生を思うと力が抜けてしまう。
子どもの頃からLGBTQをもっと身近に
子どもたちの反応はさまざま
わたしは仕事上、おもに中学生との関わりが多い。仕事ではカミングアウトはしていないが、子ども達と真剣な話しをしているとき、「カミングアウトができればもっと深い話ができるんだろうな…」と思うことがよくある。
LGBTQに対する子ども達の反応が見たくて、試しに少しだけその話題を出すときもある。
反応はさまざまだ。制服はスカートじゃなくズボンを選んでいる人がいるとか、自分の学校にも同性同士で付き合っている友達がいるとか、特に何の興味を示さない子もいれば、本当にそんな人いるのかな~、とまるで別世界のことのように思っている子もいる。
なかには「学校にホモっぽい先生がいて、いつもみんなでからかってるんです。」と楽しそうに話す子も。
大人より情報の取捨選択がうまくいかない子どもたち
情報で溢れている世の中ではあるが、大人と同じように子ども達が情報を集められる訳ではない。
中学生のスマホ所有率はわたしの実感では半数以下だ。
インテルセキュリティとMMD研究所が共同で調査した結果(2016年7月)でも中学生のスマホ所有率は40.9%となっている。
パソコンは大人が用意するものだし、子どもが自由に使える部屋に置いてあるとも限らない。
そうなると情報源はテレビか本になる。
LGBTQの偏った情報が多いテレビ
テレビで目立っているおネエ達はインパクトが強烈で話も面白い。さらに自虐ネタまでもが面白いからどうしても偏ったイメージは強くなる。
しかし現実では、周りのストレートの方と同じような日常を送っている人たちがほとんどだ。
笑って話せるようになるまでの苦しさや孤独感、それらをどう乗り越えて今に至るかを真剣に話している番組はまだまだ少ない。
田舎という環境でLGBTQの情報を得る難しさ
では、本はどうだろう。
ちょっと電車に乗って歩けば本屋さんがある、なんて便利な場所は都会ぐらいだ。
車移動が当たり前の田舎に住んだことがある方はご存知でしょうが、例えば中学生が一人で本屋さんに行くこと自体、ハードルが高い。図書館だって同じだ。
親に連れて行ってもらわないと、なかなかたどり着けないことはザラにある。
LGBTQの子ども達にとって、情報集めの不自由さは孤独感を膨らませかねない。学校で教師がLGBTQに対する差別発言をすることだってある。
LGBT当事者の半生と、そこから考えるLGBTQの子どもたちのまとめ
LGBTQはどこにでもいる。クラスの中にも職場にも当たり前に存在していて、いつも通りに生活している。
わたしがここ数年でカミングアウトをした相手は「当事者に会ったのは初めて。」と言う人が多い。
でも彼らはまた「あれからよくLGBTQの話題を見聞きするよ。」とも話す。
ある調査では、日本の人口の13人に1人がLGBTQだという統計が出ているが、わたしの乏しい人生経験からしても、もっと多いはずだと思っている。
カミングアウトをしていないだけで、どこにでもいるという事・身近な存在であるという事を、まずは大人たちが知る必要があるのではないだろうか。